扉日記

doors diary

イマジネーション3

脈絡のな文章をただ書き連ねるのは僕の頭の中の凝り固まった思考から自分を解放するための一つの手段。今あるルールは一度壊さないと新しいものは創れない。

スイミーの話の内容はあまりよく思い出せないけれど「ぼくが目になるよ」というフレーズだけは覚えている。僕の記憶は感動によってしか固定化されないようだ。

話の全体はよく覚えていなくても、「ぼくが目になるよ」という一言だけでスイミーは僕にとっては素晴らしいストーリーとして記憶されている。だからスイミーは感動的で素晴らしいストーリーだ。このフレーズに感動できなかった人にとってはスイミーの話なんてほとんど記憶に残っていないだろう。記憶とは感動のことだ。

だからぼくは感動しか求めたくない。感動がなければ僕の人生の記憶はほとんどなかったことになるだろう。

それって生きている意味がないんじゃないの?感動しかぼくに生きている意味を与えてはくれない。これは過去。自分で自分の感動を掘り起こして新しい感動を創りださないと。そうしないと今日の一日はなかったことになってしまう。

今日の感動は何?同じことの繰り返しはぼくの感動を奪っていく。最初の感動は超えられない。だからときどき戻らなければならない。

ぼくは何に感動したのだったかをいつも思い出さなければいけない。感動しようと思って世界を見渡せば僕はいつでも、どこにいても感動することができる。

感動にはいろんなタイプがある。心が動くものは全部感動だ。

こころはいつも流れ、動いている。ときどき強い衝撃がある。それを僕は忘れられない。それを追うことになる。

カンボジアのアンコールトムにいたかわいい女の子は写真を撮ろうとすると逃げた。写真に撮られると魂を抜かれると思っているようだった。

ぼくもそう思う。魂が何なのかはわからないけれど、自分の何かが抜き取られるような感じがする。

その写真に写った自分はいろんな自分のほんの一瞬でしかないのに、その写真をみたひとはその写真を僕だと思う。その写真はほんとうのぼくではない。ほんとうのぼくはもっと違う。自分の写る写真を見てこれが自分だと思ったことはない。

でもそれはほかの人にとってはそれはぼくになる。ぼくでないぼくがぼくになっていく。とても不思議な感覚だ。

世界の見え方は人それぞれ違う。世界は無数に存在している。僕も僕が思う僕だけがぼくではない。ぼくは無数に存在している。ぼくはぼくであって僕ではない。

カンボジアの子供たちが英語や日本語を操ってぼくに話しかけてくることに、当時の僕はとても危機感を覚えた。

あの子たちは生活のために知らない国の言葉を覚える。観光客が先生だ。どうしてぼくは学校で英語を教えてもらっても英語が話せるようにならなかったのだろう。英語を話すことに必要性を感じなかったからだ。そこに英語を話さなければならない環境がなかったから。それからあとはやる気。おもしろくないことにやる気はでない。おもしろかったらたぶん僕はなんでもやるだろう。みんなも。そしてできるようになるだろう。何でも。

カンボジアの女の子の顔はあまりよく覚えていないけれど、笑顔がとても可愛くて、彼女の瞳はとても輝いていた。そのきれいな瞳はぼくの心の中を全部見透かしてような感じがした。きれいな瞳はきれいなこころ。きれいな心は僕の汚れた心を気づかせてくれる。だからぼくはときどき子供になりたいと思う。

彼女はたぶん5歳くらいだったような気がする。

「心は洗えばきれいになる」ゲド戦記に出てくるおばあさんがそういっていた。

その言葉に衝撃を受けるのは僕の心が汚れてたから。おばあさんも。

だから洗った。きれいなほうが気持ちが良いから。

大きな感動の衝撃はぼくの心に直接的に話しかけてくる。

感動は気づきだ。本当の自分の気持ちに気づかせてくれる。

大体は美しいと感じたことに僕は強い衝撃を受ける。その対象が一般的に言って美しいと言われているかどうかは全く関係がない。

僕の心が美しいと感じればそれでよいのだ。何に感動するかは僕の自由だ。僕がその気になれば僕はどんなことにだって感動できるだろう。

今この世界があるということだけでもよく考えたらとても感動的だ。

よく考えると世界って本当に全部不思議。とても面白い。

 不思議なことってほんとうにたくさんある。

彼の名前は知らないけれど、エジソンが作った会社で科学者として働いていたらしい。でも今はホームレスのような風貌で白い髪は伸び放題、今は絵や小説を書いているらしい。自分が死んだあとにその作品は世に出て有名になるだろうと予言していた。

今の風貌からするとエジソンの会社で科学者をしていたなんてあまり信じられないが、僕に想像力が足りないだけかもしれない。ジャックウェルチがどうのこうのと話していた。ジャックウェルチのことをよく知っているという感じだった。

彼の話は彼の思い込みであるかもしれないし、本当のことなのかもしれない。

大学の先生をやっているサンタクロースみたいなアメリカ人のドン先生が「私はアインシュタインの教え子だった」というと、ぼくは素直に「へー、すごい!」と思う。

でも、ホームレスみたいなあまり清潔そうに見えない風貌の田舎にいる日本人が「私はアメリカで科学者をしていた」といってもあんまり信じることができない。

でも彼は見ようによってはどこか仙人のような風貌ではある。とても偉大な人であるのかもしれない。実際には偉大でない人なんかいないのかもしれない。その人がいるというだけで結構すごいことなんだから。

でもそんなことはどうでもいい。真実なんて大したことじゃない。

何かが真実だったなんていう経験はぼくにはほとんどない。自分が真実だと思ったことの大体は誤りなのではないかと思う。

ぼくにとって真実なんてもの自体は単に概念的なものでしかなく、そんなものは最初から存在しておらず、この世の中に正しいことも誤ったこともなく、それを決めるのは自分でしかない。真実は決定によって決まる。決定ならいつでも変えられる。

世界は美しい。これは僕にとっての真実だ。でもそう思わないときもある。

美しいと思ったことが美しいと思えなくなることがある。これもまた真実だ。

だから真実なんてない。あるのは僕の感情の流れ。事実と真実は違う。

同じ雲は2つとないけれど雲はいつも空にある。

今日と同じ日は2度と来ないけれど、明日はまた今日と同じように一日が始まると思う。昨日までもそうだったから。

彼が死んだあと彼の絵や小説が世に出て、ゴッホのように彼が有名になったらとしたらとてもおもしろい。それをぼくは期待している。

なんて自分の頭はすぐに固まってしまうのだろう。どうしてこんなにすぐに結論を出したがるのだろう。

頭で考えれることなんてほとんどない。頭でだけ考えて出した結論が良かったことなんてないのに、こころが同意しない結論がぼくにとっての誤りだと僕はよく知っているのに、でもぼくはいつもこころのことを忘れてしまい、ぼくのこころと違うことをついやってしまう。だからもっと自由に。頭に張り付いた固定観念から抜け出し、もっと自由に自分の頭と心を自分という小さな枠から解放してあげなければならない。

自分は自分の力でいつでも自由になれる。変な思い込みを捨てればいつでも。

ぼくはいつも自由でありたいと思う。

「画用紙に好きな絵を描いていいよ」と言われて、それができない。

そんなのは悲しい。

何かの型にはまらないといけない気がしてしまう。

型なんかいらない。感じたことをそのまま自由に表現できたらとても気持ちがよいだろうと思う。

子供のころにできたことができなくなる。自分の瞳が輝いていない。いつも心が躍っていない。そんなの生きている意味がない。

世界はみんなが思っているよりもずっとずっと広い。

足元にこんなに大きな地球があることすら僕はいつもすぐに忘れてしまう。