イマジネーション8
文章ではなく頭の中の映像を見ます。「考える」ということはどこでやっているでしょう?
浮かんでくる映像はどこに現れてくるのでしょう?
頭の中に映像をつくろうと思うと映像は頭の中に浮かんできます。
しかし例えば心臓のあたりに映像をつくろうと思えば映像は心の中に現れます。
「考えている」のは頭だけではないことに築くことができます。
みんなは頭で考えていると思っていますが、よくよく自分を観察してみると映像が浮かんでくるのは頭の中だけではないことが分かります。
例えば目を閉じて、サッカーボールが自分の足元に転がっていることをイメージします。するとイメージのサッカーボールは自分の体の外にちゃんとあります。
そして、それをイメージの遠くのゴールの左上の隅を目掛けて思いっきり蹴ってみます。
入りました。キーパーは手を伸ばしても全く届きません。
もちろんそれを頭の中でだけ考えることも可能です。
頭の中に自分と自分の足元にサッカーボールがあることをイメージし、頭の中の自分がそれをゴール目掛けて思いっきり蹴ります。
入りました。
同じシーンの映像を頭の中で再現してみました。すると自分はとても客観的でまるでテレビを見ているような感じがします。自分がボールをけっているような感じはしません。
それが頭の中ではなくて自分の足元、つまり自分の外側に映像を創ってみると、それはとても主観的に感じられます。実際に自分が体を動かさなければイメージのボールはゴールに入りません。
通常、「考える」という行為は大方の人は頭の中で、文字や数字や図などを使って行っていると思い込んでいますが、実際には違います。
「考えている」のは自分の頭であり、体であり、自分の外側にあるすべてです。
文字だと少し難しいけれど、それ頭ではなくて心や身体を使って創りだすことも可能です。
というか実際に文字を思い浮かべるときに頭でだけやるほうが不可能のような気がします。
それに文字を文字だけで、何の連想もせずに、映像を創らないで思い浮かべるということのほうが異常というかたぶん無理だと思います。
文字や数字にも必ず何かしらの自分の持つイメージと一緒にそれが映像や感情、感覚を伴って現れます。
何か一つのものが一つだけで存在することはありえないように感じられます。
自分の足元にとても大きな地球があることをイメージしてみたいと思います。
すると自分の足元に大きな地球が現れました。
意識するまでは自分の足元に大きな地球がありませんでした。
あったのだけれど忘れていたのです。
そして、大きな地球がぼくを引っ張っていることをイメージしてみます。
すると重力が現れました。
実際に重力はあったのだけれど僕はそれを忘れていたのです。
無意識を意識するといろんなものが現れます。
こんなに身近なことでも意識しないとないことになってしまいます。
感じてないものはないのと同じです。
考えることと感じることはほぼ同等です。
感じれないことを考えることはできません。
感じているのは頭だけではありません。
僕と地球と宇宙と周りに見えるもの、見えないもの、現実的にあるもの、あるようでないもの、あるのにないと思い込んでいるもの、全て僕の思考や感覚の対象になります。
また僕というのは何を指すか?その思考や感覚の向ける先のすべて。
僕の表現は常に僕の内と外にあります。
私は頭や身体や心ではありません。
自分は自分で定義することができます。
その人が自分が頭だと思っていたら頭になります。
自分が心だと思っていたら心になります。
自分は体全体だと思っていたら自分は体になります。
自分は地球だと思っていたら自分は地球の一部になります。
自分が宇宙の一部だと思っていたら自分は宇宙の一部になります。
思っていたらというのはその人がそう感じていたらということです。
その人はそう感じるんだからほかの人がどう考えようと関係はありません。
その人にはそう感じられるのだから。
自分は自分の意識の向ける先を感じることができます。意識はどこにでも行けます。
自分を自分の頭の中や身体の中に閉じ込めておくのはもったいない。
意識は自分の体を抜けていつでもどこにでも行くことができます。
イメージの中で自分はなんでも創りだすことができます。
自分が何なのかはわからないし、自分が何と捉えるのも自由です。
自分がなんなのかわからなければ、そのイメージを誰が創ったのかもわかりません。
浮かんでくるものの要素も全部外側からの何かしらのヒントによります。
浮かんできたイメージを創ったのは誰か?僕の頭ではありません。心でも、身体でもありません。
ここにある自分の身体や見える世界は誰が創ったか?自分ではありません。
自分はどこにいるか?自分なんていません。
みんな自分が何の目的でここに存在しているのか?を知りません。
目的なんかあるのでしょうか?
自然が存在することに目的なんてないかもしれないし、あるかもしれません。
でも僕が自然を見ていいなと感じれば、自然は僕にとって存在意義があります。
誰かが僕や僕のやっていることを見ていいなと思えば、それをいいなと思った人にとって僕は存在意義があります。
その時僕ははじめて僕の存在の理由を与えてもらうことができます。
そうでなければ僕に特に存在の理由はありません。
ぼくは美しいものを見ていいなと思うためにここにいます。
ぼくは存在意義を与えるためにここにいます。
だからぼくはいろんなことに対していいなと思わなくてはなりません。
ぼくが花を見ていいなと思わなくては花はきれいでいる意味はありません。
ぼくがいるから花は綺麗に咲く甲斐があります。
ぼくは花を見て綺麗だと思うことはできるけど
花がぼくをみて(感じて)いいなと思ってもらうにはどうすればよいのでしょう?
そんなことは思わないかもしれません。
でもぼくが花を見てきれいだと感じているときにぼくはなんとなく花と心が通じているように感じることができます。
それは人でも同じです。
ぼくが誰かに感謝の気持ちを持ったとき、理由はよくわからないのだけど何かが通じたような感じがします。
そしてぼくはとても幸せな気持ちになることができます。
これはたぶんみんな同じだと思う。
人でも花でも何でも。